北朝鮮からの脱北
【沖縄おじさんの人生遍歴ブログ Vol.63】
2005年にコールセンターに就職したおじさんが、最初に配属されたプロジェクトは通称「北朝鮮」と呼ばれている某PCメーカーのテクニカルサポートでした
当時のそこの業務はとても難易度が高く、業務量も多く、責任も大きく、24時間365日稼働で精神的にも肉体的にもかなりハードでした
やる作業も多ければ使うツールも多く、サポート範囲が幅広く、そのくせにFAQ的なツールはほぼないので各自で知識を蓄えないとついていけず、クレームに当たる事も多いけど基本的に上司交代はしないので自分で戦わないといけないという、今考えると明らかに異常な環境でした
会社の中でも恐らく一番ハードなプロジェクトだったと思うんですが、何も知らない未経験者だったおじさんは、この仕事はこういうもんなんだと思い必死に仕事をこなしていました
そのプロジェクトが「北朝鮮」と揶揄されていたのはハードな業務量だけが理由ではありません
プロジェクトを取りまとめていた部長は、まさに将軍様のような人でした
部長の口癖は「俺らがこの会社で一番仕事ができる集団だ。この会社は俺らでもっているし俺らが一番給料も高い。このプロジェクトで働けるのはすごい事なんだ」というものでした
見た目は小さくて禿げてて小太りのオッサンなんですけど、とてもエネルギッシュで、行動力があるように感じられて、演説気味なその話し方は、なぜかわからないけど不思議な説得感がありました
今思えば、いわゆる典型的な独裁者タイプだったと思います
おじさんも盲目的に部長が言う通りなんだと思っていました
しかし、働いて数年経つにつれ、果たして本当にここで働く事がそんなにいい事なのかと、疑問に思ってきました
同期のメンバーはほとんど、いろいろなプロジェクトに異動していろいろな業務の経験を積んでいるのに、自分は何年も同じ仕事しかしていない。会社から見た時に、いろいろな経験がある人と、たとえ成果を出していたとしても一つの仕事しか経験がない人とを比べたら、どう考えても前者の方がいいんじゃないかと思ってました
そんな北朝鮮にも、時折規模縮小のタイミングで人の異動はありました。しかしそういう時に異動対象となるのは大抵、成績が良くない人でした
いてもたってもいられなくなったおじさんは、上司に異動させて下さいと直談判しましたが、当然、その願いは叶いませんでした
そんなある時、人員不足により、おじさんを含む数名が他プロジェクトの支援に行く事になりました
これが千載一遇のチャンスだと思ったおじさんは、支援先で必死に仕事をし、最終的には半日の業務時間でフルタイムメンバーを超える処理件数を叩き出しました
そうやって顔と名前を覚えてもらい、頃合いをみてそこのプロジェクトの管理者に、このプロジェクトに異動させて下さいと直談判しました
気分はさながら、国境を越えて領事館に駆け込む脱北者です
すると管理者は、「一日で○件処理したら異動させるよ」と言いました。恐らく冗談半分だと思いますが、その件数はあまりにも高く、非現実的な数字でした
しかし、おじさんはそれにかけるしかありませんでした。必死に必死に働いて、ついにその件数を達成しました
しかし、それ以来その管理者と話す機会はありませんでした
人員の充足に伴い、鎖を引っ張られた飼い犬のように、おじさんは北朝鮮に戻されたのでした
結局、北朝鮮には10年間いました。モチベーションを失ったおじさんは、もうこの会社を辞めようと思ってました
そんなある日、北朝鮮に大きな転機が訪れました
これまで君臨していた将軍様が、他のプロジェクトに異動になり、変わって何十年も北朝鮮で働いてる生え抜きの管理者が統括になりました
そして、他のプロジェクトから管理者が異動してきました
ほとんどの社員が10年選手で、管理者も生え抜きばかりの北朝鮮では異例の事です
おじさんが異動したがってるのを知ってたのかわかりませんが、ある日突然、その管理者がおじさんに、他のプロジェクトへの異動を打診してきました
もちろん即答しました。すると、あれだけ出たくても出れなかったのが嘘のように、その日のうちに異動が決まり、数日後には北朝鮮から脱北する事ができました
後になって知ったんですが、異動してきた管理者がおじさんに異動を打診した時、統括の管理者は体調不良で休んでたそうです
統括の管理者が次出勤した時には、すでにおじさんの異動が決まっていて、どうすることもできない状態でした
あの時異動させてくれた管理者の方、本当にありがとうございます
♪今日の一曲
働く男 / ユニコーン
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原鶴編 ちんげん菜と海老と生キクラゲの中華炒め