バンドマンの厳しい現実と新たな夢
【沖縄おじさんの人生遍歴ブログ Vol.30】
子供の頃から、いつしか「普通になりたくない」という意識がありました
「背広着てネクタイ締めて仕事する平凡なサラリーマンになりたくない」とか
「親のレールに敷かれた道を歩きたくない」とか
「学校のルールに縛られたくない」とか
そんじょそこらに溢れてる、ブルーハーツに夢中な思春期男子が陥りそうな思考にとられて、とにかく普通を避けて目立とうとしてました
何か選択する時にはいつも、多数ではなく少数を選んでいました
小学生の頃に音楽に目覚め、中学に入る頃にはプロのミュージシャンになるという、これまた浅はかでベタな夢ができました
親友と出会い、いなくなってからはその夢はおじさん一人のものじゃなく、親友と2人分の重みになりました
高校でもバンドを続けて、大阪に移り住んで成人を迎えてからも、その夢は変わりませんでした
大阪でバンドをやってた頃は、売れることを目指してそれなりに頑張ってるつもりでした
ライブでは毎回、「たとえこの後死んで、これが人生最後のライブになったとしても後悔しないようにやる」と心がけていて、ステージに出るときはいつも、ドラムセットに座る前に上を見上げては、心の中で親友に「今日も一緒にぶちかまそう」と語りかけてました
そうすると不思議と体の奥底から震えるように楽しい気分がこみ上げてきて、毎回スイッチが入り、リミッターが外れたような感覚で、それこそ死ぬ気でめちゃめちゃ暴れる事ができました
名前が知られていくにつれ、ライブの回数も、遠征回数も、対バンやイベントのグレードも上がっていきました
そうなるにつれ、世の中にはこんなにすごいバンドがいるんだと知る機会も増え、それでも音楽で食えてないんだと、現実の厳しさと自分たちの身の程を思い知らされるのでした
子供の頃、ミュージシャンは自分の技術と才能で金を稼ぐもんだと思っていました。音楽で売れるためにはいい楽曲を作り、素晴らしいライブを続けていけばいいと思ってました。
けど現実は、そんな甘いものではありません
当時は今のようにYouTubeもなかったので、いくらいい音楽を作っても、それをみんなに聴いてもらうためには、いろいろな作業をしなくてはいけませんでした
いろいろな媒体を使ってライブ告知をしたり、こまめにHPを更新したり、アンケートを作ったり、フライヤーを作ったり、メールをくれたお客さんやアンケートでメアドを書いてくれたお客さんに返信したり
打ち上げにも必ず参加して、全ての席を回ってイベンターさんやライブハウスのスタッフさんや対バンさんに挨拶するその姿は、子供の頃になりたくないと思っていたサラリーマンのそれでした
それらの作業にかなりの時間を割かれ、その上バイトもして、スタジオに入って曲作りをして、高いノルマを払ってライブをしていかなくてはなりません
音楽で食べていくには、音楽だけやっていればいいんじゃないという事を知りました
当然、売れるためには音楽の才能と、技術力を向上させるための地道な努力も必要です
プロ野球選手や芸人と同じように、四六時中音楽の事を考え、時間もお金も体力も精神力も、全てを犠牲にして音楽に捧げるのは最低条件で、さらに営業力や人あたりや運など、様々な要素が備わって何万人に1人ほどの確率でようやく食べていけるという世界です
当時のおじさんがそれだけの努力をしていたかというと、はっきり言ってできていませんでした
ある日、母親がメールで新聞の記事を送ってきました
その記事には、おじさんが中学生の頃、人生初のライブでボーカルをしてくれた高良結香さんの事が書かれていました
結香さんが高校を卒業した後、ミュージカルの道を目指してアメリカに渡り、本場ブロードウェイのミュージカルで厳しいオーディションを勝ち抜いて役を勝ち取ったといういうことを知り、とてつもない衝撃を受けました
世界中の数あるアクターが夢見るブロードウェイで、日本人が役を勝ち取るのなんて、日本で音楽で食べていくよりも何千倍に困難です
まがいなりにも、同じステージに立った人が、こんなすごい事を成し遂げているとは…
自分もいつか、結香さんに名が届くぐらい頑張ろう。そしていつか、再会した時には、「勇気をもらいました」とお礼を伝えようという、新たな夢ができたのでした
♪今日の一曲